ゴールデンウィークのある日。 曇天です、でも空気はさわやかです。 新撰組のその後≠たどる散策に出かけました。 たまたま本屋で手に取った『江戸・幕末を切絵図で歩く』(伊東 成郎著 PHP研究所)。 その中に永倉新八の住居跡のことが載っていましたので、実 際に歩いてみました。 永倉新八は、ご存知、新撰組の副長助勤。 腕は新撰組随一とされ、池田屋へのきり込み、鳥羽・伏見の 戦いでも勇敢に戦いました。 1876年(明治9年)、東京の北区滝野川(JR板橋駅前)に新撰 組の慰霊墓を作ったことでも知られています。↓ ![]() そこには彼自身の墓碑もあります。 ![]() 維新後、生き延びた永倉新八は明治20年、北海道から上京 します。まずは足立区千住に住みます。 そしてその後、明治32年に小樽に舞い戻るまで、都内文京区 に四ヶ所の住居を構えたということです。(『新選組史蹟事典』 <東日本編>) まず最初の住居は、 文京区小石川1-28-1(明24.11.3−明25.2.9)。 水道橋方面に白山通りの右側、9階建てのオフィスビル「フロ ンティア小石川ビル」あたりです。↓ ![]() おお、立派な建物。 仕事場がかつての新撰組隊士の住居跡だとわかると、仕事も 楽しくなるでしょう。(ならないかな?) その次に移り住んだのは、 文京区小石川1-17(明25.2.9−明28.5.16)。 同じく水道橋方面に白山通りの右側、賃貸マンション「エルア ージュ小石川」付近です。↓ ![]() 「クイーンズ伊勢丹」(スーパーマーケット)の裏で、最初の住 所から数分の距離です。 三番目の場所は、 文京区白山1-23-14・15(明28.5.16−明28.7.6)。 水道橋方面に白山通りの左側から、サニーハイツというマン ションを左に折れた通りの奥あたりです。↓ ![]() ごく普通の住宅街です。 最後に住んだ四番目の住所は、 文京区白山2-39-5(明28.7.6−明32不詳)。 ↘白山通と旧白山通に挟まれた三角州のような場所です。 ![]() 都営三田線白山駅からすぐの白山下という場所です。 この三角地帯、元々は白山2丁目の外れだったとか。 その後、新しい白山通りが作られたため、飛び地となったよう です。(中央の建物群の背後も、ぐるり道路になっていて、離 れ小島。不思議な場所です。↓) ![]() 永倉はこの三角地帯≠気に入ったのか、一番長く住んだ ようですね。 もっとも、調べたところ、白山通りは、大正の後期から昭和の 初期にかけて作られたそうですから、永倉が住んでいたころ は別の地形や風景があったのでしょう。 さらに本屋で『昭和十六年 大東京三十五區内 小石川區 詳細図』(地形社編)なる古い地図を見てみました。 すると、昭和十六年には、この三角地帯(39番地)はその一 部が道が切れていたものの、すでに出来上がっていました。 とにかく、この場所を最後に、彼は東京を去り、ふたたび小樽 に戻っていきます。 道路の反対側からこの三角地帯を眺めていると、背後に隠さ れた歴史の記憶が、ぱあっとよみがえってきました。 永倉が生きた時代と現在とが微妙に重なりあい、時の流れ の不思議さへ感慨がわいてきます。 それにしても、永倉は文京区内で頻繁に引越しを繰り返して います。なぜなんでしょう、帰りの地下鉄の中で思いました。 さらに詳しくは→ ![]() にほんブログ村 |
<< 前記事(2011/05/03) | ブログのトップへ | 後記事(2011/05/21) >> |
タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
---|
内 容 | ニックネーム/日時 |
---|---|
こんばんは♪ |
みーおでん 2011/05/14 22:58 |
こんばんは、みーおでんさん。 |
いちゆう 2011/05/15 22:02 |
気持玉一個ずつやっときますた |
モコ 2011/12/10 11:41 |
モコさん、こちらこそ、ありがとう!!! |
いちゆう 2011/12/27 23:05 |
<< 前記事(2011/05/03) | ブログのトップへ | 後記事(2011/05/21) >> |