天地正大の気、粋然として神洲に鍾(あつま)る 秀でては不二の嶽(たけ)と為り、巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ 注いでは大瀛(たいえい)の水と為り、洋洋として八洲を環(めぐ)る 発しては万朶(まんだ)の桜となり、衆芳(しゅうほう)与(とも)に儔(ちゅう)し難し 凝(こ)っては百錬(ひゃくれん)の鉄(てつ)となり、鋭利(兜)を断つべし (『幕末十冊の名著』(北影雄幸 勉誠出版)より転記) これは藤田東湖の正気の歌の冒頭の部分。 尊攘志士たちはこれを吟じたたけでブルっときたようです。 そんな、後期水戸学を代表する思想家、藤田東湖の史跡 めぐりに出かけました。 まずは、護母致命之処(ぼごちめいのところ)の碑を訪ね ました。 幕末史跡はいろいろまわっていますが、終焉の地として、 母を護(まも)るために死に至った場所≠フ碑などとい うのはあまりないような気がします。 藤田東湖は安政2年(1855)の大地震のさい、母を助け自 らは圧死。 この突然の死は、のちに思想的にも政治的にもかなりイ ンパクトがあった事件のようです。 * まず、小石川後楽園(水戸徳川家の中屋敷、のち上屋敷) に行きました。(文京区後楽1-6-6) 入り口です。あいかわらず見学者が多いです。 ![]() これは、駐歩泉(ちゅうほせん)の碑↓です。 ![]() 入園して右回りに進んですぐのところにあります。 説明板によると、 西行堂側の流れを、九代斉昭が西行の和歌にちなみ「駐歩 泉」と命名し、自ら筆をとり碑を建てたのだそうです。 ![]() 「西行堂」とは、西行法師の木像を安置したお堂で、戦災で焼 失しているようです。 * 護母致命の碑を求めて、緑の中を歩いていきます。 お、もうすぐかな。 ![]() さらに歩いていきます。 あの白っぽい石柱が碑なのでしょうか。 ![]() そのようです。 碑は小石川後楽園の北東の隅にありました。 ![]() 「藤田東湖先生護母致命之処」とあります。 立派な碑です。 * 小石川後楽園を出て水道橋交差点の近くにやってきました。 「藤田東湖先生護母致命之処」の碑は、もともとここにあった とのことです。 ![]() 前は白山通りです。 ![]() JR水道橋駅前の横断歩道からの撮影です。 あのあたり(緑の木の前あたり?)に家があったのでしょうか。 ![]() 続きます。 さらに詳しくは→ ![]() にほんブログ村 |
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